日本企業による買収のニュースが揺らした「日常の記憶」
ベトナム最大手の文具メーカー、Thiên Long(ティエンロン)が日本のコクヨに買収されるというニュースが流れた時、多くのベトナム人が感じたのは驚きではなく、“一抹の寂しさ”だった。
ブランドは単なる商品ではなく、人々の日常に染み込んだ「記憶の器」だ。だからこそ、外国資本に移る瞬間、生活者はそれが自分たちの手を離れていくような感覚を覚える。
私自身、ハノイの中学校・高校・大学で日本語を教えてきたが、教室を見渡すと ほぼ全員の筆箱に Thiên Long のボールペンが入っていた。 壊れやすい。しかし、価格が手頃で、指に馴染むデザインで、どこでも売っている。
「高くて高品質」ではなく、「壊れてもまた買いたくなる」――そんな“生活者の愛情”に支えられたブランドだった。
Thiên Long ブランドが人々と共有している物語
ブランドは単に経済価値を持つだけでなく、社会の中で共有される“物語”でもある。Thiên Long のボールペンは、ベトナムの学生たちの努力、家族の教育への投資、教室の空気、テスト前の緊張……そうした小さな人生経験をすべて吸い込んだ象徴だった。
だからこそ、今回の買収は製品の所有者が変わる以上に、
「私たちの物語は、これから誰が語るのか?」
という問いをベトナム社会に突きつけている。
グローバル資本がローカルブランドにもたらす期待と不安
買収によって、Thiên Long は設備強化、研究開発の高度化、国際流通の拡大など恩恵を受けるだろう。ベトナム製文具が世界市場で存在感を増す可能性もある。私自身も壊れにくく、より使いやすくなり、手軽だか世界でも愛されるようなThiên Long をかなり見てみたい。
しかし同時に、
「ローカルの美意識が薄まり、製品が均質化してしまうのでは」
という不安がある。またSNSでもそのような意見が多く語られている。
壊れやすいが温かい、手に馴染む質感、街角の文具店で気軽に買える手頃さ――こうした“ベトナム的な魅力”が、国際展開の中で失われる可能性もあるからだ。
世代をつなぐブランドが「断絶の象徴」に変わる瞬間
文房具は生活必需品であるため、世代間で共有される文化アイテムになりやすい。Thiên Long もその一つだ。
40代の親が学生時代に使っていたブランドを、今はその子どもが使っている――その連続性こそ、国民的ブランドの力である。
しかし買収が発表された今、
「昔のティエンロンと、これからのティエンロンは違う」
と人々が感じ始めている。
それは単なる製品の変化ではなく、
過去と未来をつなぐ“文化の橋”が揺らぐ感覚に近い。
まとめ:喪失の感情を越え、ブランドはどこへ向かうのか
国民的ブランドの買収は、単に経済の話ではない。
それは、人々の生活に刻まれた“手触りのある記憶”の再編であり、文化の再配置でもある。
ベトナム社会が今回覚えた一抹の寂しさは、
「私たちの生活を形づくってきた身近なものが、少しだけ遠くへ行ってしまう」
という感覚だ。
それでも、Thiên Long がこれからどんな形で世界に飛び出していくのか――その物語の続きを見守り、そしてその物語に飛び込んでいくことも、また新しい文化の醸成につながるのかもしれない。
参考記事:CafeF
