人はどこまで「メディア」になれるのか?——明石家さんまとみうらじゅんが変えた、日本の「面白さ」の構造
日本のメディア史には、
時々「出演者」ではなく、「プレデター(捕食者)」が現れる。
その代表が、明石家さんまとみうらじゅんだ。
大好きな明石家さんまについて以前も語ったが、大好きなみうらじゅんも加えて語りたいテーマがある。
もちろん二人は全く違う。
片方は、爆発的な会話量とリアルタイム性でテレビを支配した怪物。
もう片方は、ゆるく、脱力し、雑誌やサブカル空間を侵食した観察者。
だが、この二人には決定的な共通点がある。
「メディアのルール」ではなく、
「メディアの存在理由」そのものを変えてしまったことだ。
明石家さんまは“速度”でテレビを喰った
さんまは、テレビというメディアの本質を変えた。
本来テレビとは、編集のメディアだった。
撮影し、切り貼りし、演出し、
「完成された時間」を作る装置。
しかし、さんまはその構造を壊した。
彼は“編集前に完成している”。
・予定外の会話
・共演者の失言
・空気のズレ
それらを瞬時に笑いへ変換する。
つまり、テレビ局が持っていた「編集権」を、
一人の人間が奪ってしまった。
これは言ってしまえば、「制度から個人への権力移行」である。
テレビ局という共同体が持っていた意味生成機能を、
さんま個人が内部化した。
だから彼は「テレビタレント」ではない。
「テレビそのもの」になったのだ。
みうらじゅんは“意味”で雑誌を喰った
一方、みうらじゅんは真逆の方向からメディアを喰った。
彼は、雑誌やメディアが本来持っていた
「価値を発見する機能」を乗っ取った。
たとえば、
・マイブーム
・ゆるキャラ
・アウトドア般若心経
・いやげ物
・老けづくり
これらは単なるネタではない。
本来、雑誌とは「価値あるもの」を紹介する場所だった。
しかし、みうらじゅんは逆をやった。
「価値がないものを、面白がる」という視点そのものを商品化した。
これは極めて重要だ。
なぜなら彼は、
「価値の中心」ではなく、「価値の周縁」を流通させたからだ。
二人とも「編集者」を不要にした
ここで、さんまとみうらじゅんは繋がる。
二人とも、編集者を不要にした。
さんまは、リアルタイムで番組を完成させた。
みうらじゅんは、自分の視点そのものを企画化した。
つまり両者とも、
「何を載せるか」ではなく、
「誰が見るか」が重要になる世界を作った。
これは現代SNSの原型でもある。
さんまは“熱”、みうらじゅんは“冷”で喰った
ただし、喰い方は真逆だ。
さんまは熱で侵食する。
・大声
・高速会話
・圧倒的存在感
・現場支配力
彼はメディア空間を“高熱化”する。
だから周囲も巻き込まれる。
一方みうらじゅんは冷たい。
・脱力
・ズレ
・無意味への執着
・「どうでもよさ」の発見
彼は熱狂を作らない。
むしろ「熱狂を少し冷ます」。
しかしその冷却によって、
逆に世界の見え方が変わる。
言ってしまえば、二人は「価値交換」の革命者である
経済人類学では、
価値は“モノそのもの”ではなく、“共同体が何に意味を与えるか”で決まる。
さんまは、「空気」を価値化した。
みうらじゅんは、「無意味」を価値化した。
これはどちらも、
近代メディアが前提としていた価値体系への反乱だった。
テレビは「完成品」を売っていた。
雑誌は「意味ある情報」を売っていた。
だが二人は違った。
・さんま → “生の反応”を売った
・みうらじゅん → “どうでもよさ”を売った
つまり二人とも、
「商品化されていなかったもの」を市場化したのである。
そして現代は、みんな「みうらじゅん」になった
ここが面白い。
YouTube以降、多くの人は「さんま」を目指した。
喋り、リアクションし、場を支配しようとした。
しかしSNS時代に本当に増殖したのは、
実は「みうらじゅん的視点」だ。
・変な看板
・ダサい広告
・地方観光地
・謎文化・祭り
・B級スポット
これらを「面白がる文化」は、完全にみうらじゅん的である。
つまり彼は、
インターネット時代の視線を先に作っていた。
結論:「喰った」のではなく、「消化した」
さんまはテレビを喰った。
みうらじゅんは雑誌とサブカルを喰った。
だが重要なのは、その後だ。
二人とも、メディアを破壊したのではない。
「自分の身体の一部に変えた」。
だから彼らは「出演者」に見えない。
メディアそのものに見える。
そして現代とは、
個人がメディアを内部化していく時代なのだ。
その最初の巨大な実験体が、
明石家さんまとみうらじゅんだったのである。
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